こちらの記事でもちょっと触れた、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』ですが、「環世界」のことについてはこの記事では触れません(汗

タイトルはまたホッテントリメーカーで作りましたよと・・・。



ざっくりいうと
1.現代の消費社会は、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。
 

2.マルクスによれば、だれもが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。その実現への第一歩は、贅沢のなかからこそ始まる。
 

3.退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。<暇と退屈の倫理学>の次なる課題は、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかということ。

 

さて、人間に無理を強いて働かせるとどうなるか?当然、効率は悪くなる。同じ仕事をするにしても、調子がよい時よりも、時間がかかってしまったり、失敗したりする。  するとこう考えねばならない。労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせること───資本にとっては実はこれが最も都合がよいのだ。(118ページ)


これは確かにそうですね。そう考えると、長時間労働を強いるブラック企業は実は経営が下手、ということになるでしょう。
 

「仕事が充実するべきだ」という主張は、仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む。人は「新しい階級」に入ろうとして、あるいは、そこからこぼれ落ちまいとして、過酷な競争を強いられよう。(129ページ)


これも確かに。充実している/していないなんてのは人によって千差万別ですし、「やりがい搾取」なんてのもあるわけです。ハードルがどんどん高くなっていくだけで、その一方こぼれ落ちるものたちへのフォローなんてない、そんなんじゃ皆疲弊して先細りしていくだけです。「そんな弱いやつは生き残れない」? それはとんだマッチョ思想ですな(故に脳筋)。自分だけは生き残る自信があるとでもいうんですかねえ?
 

かつてオフィス・オートフォーメーションが現れたときには、機会が人間の雇用を奪うと恐れられた。しかしそれは杞憂に終った。いまは人間が機械の代わりをしている。このポスト・フォーディズムの時代にあっては、「新しい階級」の提言など戯言でしかない。(136ページ)


結局機械もまだまだコストがかかるし、新しい製品を開発するには、そのための機械もまた新しくしなければなりません。設備投資よりも人件費のほうが安いから人が雇用されているだけ、というわけです。(*ここら辺の設備投資vs人件費は詳しい数字は分かりませんがンガクク)
 

必要なものが必要な分しかない状態は、リスクが極めて大きい状態である。何かのアクシデントで必要なものが損壊してしまえば、すぐに必要のラインを下回ってしまう。だから必要なものが必要な分しかない状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状を維持しなければならない。(143ページ)


ここら辺は小飼弾さんのブログでもあったかな。メルマガでもあったと思いますが、それは転載するわけにはいかんでしょうなあ。
 



暇を作れぬ奴に金は作れない


暇というのは、「時間が空いている」ということではない。配るべき心の余裕がある、ということである。彼らの成功サイクルは、以下のとおりである。

生産性を向上する
向上した生産性を、暇にまわす
暇なときに、チャンスが巡ってくる
そのチャンスをものにする
1に戻る
例外は、ない。一つも。
 

そのことに気がついていない人たちは、忙しい。時間はあっても、その時間を有効活用するだけの心がない。時間が投資ではなく浪費されている。だから貝亡となる。金(貝)がないので、安い仕事に「忙殺」される。これを何回か繰り返せば、ワーキングプアの一丁上がりとなる。彼らは実に忙しい。安月給でこきつかわれるのに。TVの前で過ごすのに。そして、真の暇人たちの揚げ足をとるのに。

おっと、結構辛辣なこと言ってますな・・・。
 


人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。(348ページ)


まあ「退屈だ」といいながらパチンコやソシャゲをやっていると、明らかに搾取されているわけです。贅沢というよりも単なる「消費」でしかないから。うーん、じゃあどうすればいいんでしょ。「贅沢」とは?
 

マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。だれもが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会が作られねばならない。そして、物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。(356ページ)


「贅沢」の定義はここに。「楽しむ」ってのが大事。ただ単に興奮するとか、消費するのではなくて。
 

退屈とどう向かい合っていきていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。(356ページ)


いやあ、ぜひともそのような「皆に暇を許す」社会が訪れてくれるといいですな。自分に余裕がないと他人を思いやることもできないので。

 



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